「無明 〜小さな光〜」

1. 闇は、光の欠如ではない

現代において「無知=悪」とされる時代です。しかし、仏教の「無明(むみょう)」は、もう少し深いところにあります。

無明とは、“知らないこと”ではなく、“見ようとしないこと”。それは、心が目を閉じたまま歩こうとする姿のことです。時眼坊(じげんぼう)は、無明を**「静かな霧」**のように感じます。闇ではなく、淡く光を散らす霧の中で、人は「自分の足がどこに向かっているのかわからないこと」を恐れます。

無明とは、愚かさではなく、恐れ。
真実から目を背けた心の闇を指しています。


2. 暗闇でしか見えない光の正体

私たちは痛みを避けるために真実から目を逸らそうとしますが、その“見ない努力”こそが苦しみを長引かせます。時眼坊はここで、「見る勇気」を促します。

闇の中で人が求めるのは、闇を消すほどの強い光ではなく、迷わずに歩けるほどの、かすかな灯。
それは、風に揺れても消えない蠟燭の火のようなもの。

では、その小さな灯りとは何でしょうか。

それは、自分自身の内側に灯る光——すなわち**「自灯明(じとうみょう)」**です。
自灯明とは、釈尊の言葉であり、“自らを灯りとせよ”という意味を持ちます。

この灯は、外からの評価や正しさではなく、「自分を愛し、信じるという小さな勇気」に他なりません。

闇の中に灯る光は、
誰かがくれたものではない。
自分を信じる勇気が、自らを照らしていた。

この自灯明は、明るい場所にいるときには気づけないものです。
すべての光が消えた夜に、ようやく自分の小さな火が“息をしていた”ことに気づく。
闇が訪れたときに、「まだ灯っている」と感じられたならば、それこそが真の自灯明であり、「自分を愛する勇気」がその燃える源なのです。


3. 迷いと煩悩は、自己発見の旅の地図

無明の闇は、自分という存在を知るために大切な余白を与えてくれます。

迷いも、悩みも、苦しみも、すべては「自分は何を恐れているのか」「何を願っているのか」を覗きこむきっかけ。
迷うということは、止まっているのではなく、深まっているのです。

仏教には「煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)」という言葉があります。
これは、煩悩(迷いや苦しみ)こそが、悟りへの芽である、と説くものです。

煩悩は、怒り、欲、執着など「心をかき乱すもの」を指しますが、
これらは同時に、人が生きようとする心の熱なのです。
その熱を消すのではなく、静かに見つめることで、
私たちは闇の中で自分の“生の本音”を見つけます。

迷いは、道を失うことではなく、
まだ知らぬ自分と出会うための、ちょっとした寄り道。


4. 一呼吸が永遠の入り口

無明を語るとき、私たちは般若心経の深奥に触れます。

般若心経には「無無明 亦無無明尽」(むむみょう やくむむみょうじん)という一節が刻まれています。
これは、“無明もなく、また無明の尽きることもない”という意味です。

一見、矛盾しているようですが、これこそが**「空(くう)」**の思想——
すべては移ろい、固定されたものは何もない、という真理を表しています。

無明と悟りは、対立するものではありません。
それは、同じコインの裏表のようなもの。
心の見る角度が変わると裏表で、闇は光になり、光は闇になる。
どちらも実体として固定されたものではなく、
ただ**「今、自分がどう見ているか」**という心の状態にすぎないのです。

光を求めて歩くうちは迷いの途中ですが、やがて気づくのです。
灯台の光も、仏の光も、結局は**“自分がどこを見るか”を教えてくれるだけのもの**。
光が照らしていたのは道ではなく、歩こうとする自分の心だったのです。
灯を求めていた自分自身が、すでに光そのものだったということに。

そして、この真理は「一呼吸」の間に凝縮されています。
お釈迦様は「人は一呼吸によって生かされている」と弟子に答えました。
過去を悔いても、未来を案じても、生きているのは**“今、吸って、吐く”この瞬間**だけです。

無明とは、“まだ見ぬ自分”に出会う前の時間。
焦らず、立ち止まり、呼吸を整えるための夜明け前の静寂なのです。

無明を恐れるのではなく、抱きしめる。
迷うことは、心がまだ生きている証。

そしてその灯は、誰かに渡すためにあるのではなく、
ただ静かに、自らを照らし続ける。


✍️ コメント文

無明とは、消すべき闇ではなく、照らすための余白。
その余白に、今日もあなたの光が映りますように。

ー合掌。

「闇の中でこそ、自分の小さな灯に気づく。無明と悟りのあわいを歩む、現代の禅エッセイ。」

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