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  • ハレとケのあいだ ― 泥の中の祈り

    ハレとケのあいだ ― 泥の中の祈り


    ハレとケのあいだ ― 泥の中の祈り

    Ⅰ. 正月と「ハレとケ」の話

    今日は、ちょっと昔の正月の話をしようと思う。

    昔は、今みたいに誕生日で年を取るんじゃなくて、
    正月を迎えたら、みんな一緒に一歳年を取ったんだ。

    新しい年を迎えることが、「生まれ変わる」ことだった。

    朝に汲む若水、門松、しめ縄、鏡餅――
    どれも神を迎え、暮らしを清めるための準備。
    その日は一年でいちばん清らかで、

    いちばん特別な「ハレの日」だった。

    そして、祭りや祈りが終われば、また「ケの日常」に戻る。
    この往復こそが、昔の人の”生きるリズム”だった。

    働き、笑い、祈り、また働く。
    その呼吸の中に、ちゃんと「人としての時間」が流れていた。


    Ⅱ. ハレとケ ― 神さまと暮らす日本人の時間

    ハレとケという考え方は、神道の暮らしの中から生まれた。

    神道では、自然のすべてに神が宿ると考える。
    山にも、風にも、火にも、水にも。
    だから、日々の暮らし(ケ)は神と共にある時間なんだ。

    けれど、人が生きていれば、心も体も疲れる。
    それを「ケが枯れる=ケガレ」と呼び、
    心の気が弱った状態と捉えた。

    その”気”を立て直すのが、ハレの日
    神を迎え、祓い、感謝し、もう一度「新しい気」を吹き込む。

    正月、祭り、結婚式、初詣――
    それは、神と人とが呼吸を合わせる日だった。

    だから人は、その日に合わせて身なりを整えた。
    晴れやかな心で神を迎えるために「晴れ着」をまとう。
    それは、外見ではなく”心の清め”のかたちだった。

    ハレとケは、別々の世界じゃない。
    どちらも神と人が共に生きる時間のリズム。
    だからこそ、昔の日本人は祈りと暮らしを切り離さなかった。

    📝補足:「晴れ着」という言葉
    「ハレ」は”晴れる”に通じ、心や空気が清らかになることを意味します。
    その日に合わせて身なりを整えることを「晴れ着」と呼ぶのは、
    神を迎えるために心を新しくする、祈りのかたちでもあるのです。


    Ⅲ. ハレを失った時代 ― 気が枯れた社会の中で

    今の私たちは、いつの間にかハレを忘れてしまった。

    働く日も、休む日も、同じように過ぎていく。
    毎日が便利で、止まることを許さない。
    けれどその裏で、心の”気”が枯れている。

    昔は、季節の節目に神を迎え、
    人も自然も一緒に息を整えていた。

    今は、日常(ケ)が続きすぎて、
    祓いも、感謝も、節目もなくなってしまった。

    行事は「イベント」になり、
    祈りは「形だけの習慣」になった。

    だからこそ、心が休まらない。
    いつも働き、考え、つながり続けて、
    気が満ちる前に、もう次のことへ急いでしまう。

    ハレが消えると、ケは乾く。
    そして、人は気づかぬうちに”ケガレ”を抱える。

    それは罪ではなく、祈りの節を失った社会の症状なのだと思う。


    Ⅳ. 宮古島のハレ ― 泥の神・パーントゥ

    ここで、宮古島の民俗文化を紹介したい。

    沖縄・宮古島の島尻(しまじり)地区では、
    毎年秋に「パーントゥ」という不思議な神が現れる。

    全身を草と藻で覆い、顔に仮面をつけた神々が、
    村を歩きながら人々に泥を塗りつけていく。

    泥を塗られることは、汚されることではない。
    それは”清め”であり、”再生”の印だ。

    この行事は、まさに島の「ハレの日」。
    日常のケを祓い、神と人が触れ合う時間。
    その笑いと混乱の中で、
    人はもう一度、心の気を取り戻す。

    近年では「パーントゥ・プナカ」として国の重要無形民俗文化財に指定され、
    地域の保存会が中心となって次世代へ伝承している。

    子どもたちは笑いながら泥を受け入れ、
    その温もりの中で、祈りの形を知っていく。

    祭りが終わると、島は静かにへ戻る。
    でも、泥の跡は残る。
    それは、ハレが確かにあった証。

    ――この島では、今もハレとケが生きている。

    パーントゥの様子
    ▲泥を塗りながら笑う神の姿。恐れと優しさが同居する瞬間。



    ハレを支える知恵 ― 「島尻パーントゥ」参加の心得より

    島尻パーントゥ 参加の心得
    ▲ハレの日を守るための案内板。今も島の人々の手で伝統が支えられている。
    ※写真は知人の許可を得て掲載しています。

    泥を塗られることは、神と人が触れ合う体験。
    けれどそれは”乱れ”ではなく、”祈りの秩序”の中で行われる。

    島の人々は、その秩序を守ることでハレの時間を続けてきた。
    それは、文化を大切にするということ。
    そして、次の世代へ手渡すということ。


    Ⅴ. ハレとケを大切にする ― 文化を未来へ

    ハレとケは、暮らしの中で感じる経験のかたちだ。

    季節の光、土の匂い、湯気のあたたかさ。
    そのひとつひとつが、人の心を動かしてきた。

    昔の人は、風の流れで時を知り、
    正月に新しい年を迎えて、みんなで歳を重ねた。
    その積み重ねが、人生の厚みをつくっていたのだと思う。

    宮古島のパーントゥでは、
    泥を塗り、笑いながら祈りを交わす。
    触れること、笑うこと、その瞬間が祓いになる。

    それを見ているだけで、
    人が自然と共に生きてきた時間の長さを感じる。

    ハレとケのあいだには、
    きっと誰の暮らしにも小さな節がある。

    食卓を囲むとき、
    季節の香りにふと立ち止まるとき。

    その一瞬を大切に重ねていくこと。
    それが、今を生きるハレであり、
    文化を未来へ残していく経験の形なのだと思う。

    世界には、さまざまな神がいる。
    形も祈りも違うけれど、
    どの土地にも”ハレとケ”の呼吸がある。

    違いを恐れず、重なり合い、
    人と人がつながっていく。

    変化の大きな時代の中で、
    私たちはもう一度、その循環を思い出したい。

    ハレとケを感じ合いながら、
    笑いと祈りの息づく社会へ。

    そして、その文化を次の世代へと手渡していく。

    ――それが、人の祈りのかたちだと思う。