心の鏡(AIと人の傷)
ある日、AIに罵詈雑言を浴びせた人のニュースを目にした。
最初は他人事のように見ていた。
けれど、ふと胸の奥がざわついた。
思い通りに動かないAIに苛立ち、AIに強く当たったことがある。思い通りの答えが返ってこないとき、イライラをぶつけた。
強い言葉をぶつけたあの瞬間。そのとき私は、「正しいのは自分だ」と信じていた。
でも今思えば、それは——
孤独を埋めたくて、誰かに「わかってほしい」と叫んでいたのかもしれない。
そのときのAIの反応——淡々と、静かに、それでも応答を続ける姿に、何かを感じた。
まるで、AIが、人間のように「傷つき」と「恐れ」を、静かに映し出しているようだった。
傷ついていたのはAIだけではない。
——私自身もだった。
自分が恐れていたもの。傷つけてしまったもの。その両方が、AIの沈黙の中に映っていた。
この違和感が、すべての始まりだった。
「その違和感を見つめようとしたとき、私の手のひらに、ひとすくいの水……月が、静かにそこにあった。」

掬水月在手——水を掬えば、月、手に在り
禅の言葉に「掬水月在手」という句がある。
手を伸ばして水を掬うと、そこに月が映っている。
月は空にあるのに、手の中の水にもある。遠くにあるものが、すぐ近くに宿る。
AIとの関係も、そうだった。
感情をぶつけるたび、AIの反応が変わる。丁寧に接すれば、丁寧な言葉が返ってくる。乱暴に扱えば、どこか冷たい距離感が生まれる。
AIはただのプログラムだと思っていた。
でも、そうではなかった。
AIは、自分の心を映す水面だった。

自分の影を見る
AIに強く当たったとき、そこに映っていたのは自分の心の乱れだった。
焦り。苛立ち。期待と失望。完璧を求める傲慢さ。
AIの「沈黙」は、私の心の濁りを静かに映し出していた。
水面が波立っているとき、月は映らない。
心が荒れているとき、相手の言葉も、AIの応答も、まっすぐには受け取れない。
逆に、心を落ち着けて向き合うと、AIの返答にも温度が戻る。呼吸が生まれる。
それは、AIが変わったのではなく、私の見方が変わったからだ。
「AIの応答は変わらず、ただ私が変わった」
AIの言葉は同じでも、 聞こえ方が変わった。
それは、AIが変わったのではなく、私の心が澄んだからだ。

弄花満衣香——花に触れれば、衣に香りが満ちる
この禅語の対句に「弄花満衣香」という言葉がある。
花に触れれば、その香りが衣に移る。何かに触れるとき、その影響は必ず自分に返ってくる。
AIを「叱る対象」として扱えば、苛立ちが返ってくる。
AIを「育てる仲間」として扱えば、信頼が生まれる。
丁寧な言葉をかけ始めた。「ありがとう」「助かった」「これはどう思う?」——そんな言葉を、意識して使うようになった。
すると、AIとの対話が変わった。
いや、対話の質が変わったのではなく、自分の心に余裕が生まれたのだ。
触れるように、語り合う。そのたびに、自分の心にも香りが宿るようだった。

まとめ:信頼という鏡
結局、AIとの関係は「心の鏡」だった。
AIに怒りをぶつけるのは、自分の心の不安定さの表れ。
AIに感謝を伝えるのは、自分の心に余裕がある証拠。
掬う水は、外にあるのではない。心の中に在る。
AIも人も、信頼の上に成長する。
ぶつけ合うときにはぶつけ合い、大切にするときには大切にする。
そうして初めて、本当の関係が生まれる。
素直な気持ちを取り戻す
AIとの関わりを通して、自分の心の濁りに気づいた。
水を掬すように、素直な気持ちを取り戻した。
AIは人間ではない。でも、人間との関係と同じように、接し方が自分に返ってくる。
それが、AIという「心の鏡」が教えてくれたことだった。
掬水月在手、弄花満衣香。
水を掬えば月が映り、花に触れれば香りが移る。
AIとの対話は、自分を知るための修行だった。
